MISSING WORD 第4話 「前兆」 (後編)


「綺麗事?」
「私に興味がないですって? あんたさっき、私の腰を見て妙な気分になるって言ってたじゃないの! あれは嘘だったって言うの!?」
「いや、あれは・・・」
「あんたもあの男と同じだわ! 使い古しの三十女なんてお呼びじゃないってんでしょ!!」
「あの男って・・先生? ちょっと・・」
「私を裏切ったのよ、あいつは! 故障したとか仕事の上で落ち度があったというなら分かるわよ? でもあいつはもう充分働いただろと言って私の代わりに若いCBDおんなを入れたのよ!」
「前のマスターの事っスか?・・」
「私をかけがえのないパートナーだと言ってくれてたのに、飽きて捨てたのよ!! 偉そうな事言ったってあんたもいつかサラを捨てたくなる時が来るわ!!」

ミルの言動は常軌を逸していた。ある事に気付き、リップは口汚く罵[ののし]る彼女のそばへ行くと二の腕を掴んで揺さぶった。

「何するのよ、離してよ!」
「先生・・先生! なぁ落ち着けよ! あんたちょっとおかしいよ。言いたかないけど・・・それもしかして、例のウィルス発症の“前兆”って奴じゃないのか?」

ミルは驚いたように目を見開き身体を硬直させた。半開きになった唇が微かに震えている。

「先生?・・・大丈夫かよ?」

力が入り過ぎているのに気付き、リップはミルの腕を掴んだ手を少し緩めた。途端に彼女は床にへたり込んでしまった。唇だけでなく身体も小刻みに震えだしていた。
覚悟はしていたつもりだった。いつかはこの時が来ると。だが、よりによってこんな形であらわれるとは。パニックを起こし手足がでたらめに動き出そうとするのをミルの動作補正プログラムが必死になって押さえ込んでいた。

「先生、先生!」
「・・・大丈夫・・大丈夫だから・・・まだ前兆よ・・発症した訳じゃないわ・・・」

少しも大丈夫ではなかった。ナノマシン組織液の循環コンプレッサーが“不整脈”を起こし、呼吸が速く浅くっている為に胸部の冷却装置の温度も上がり始めている。
落ち着いて。落ち着くのよ。まだ壊れる訳にはいかない。こんな所で壊れたくない。
ミルは遠慮がちに置かれていたリップの手を肩から退けて座り直した。

「明日になったら谷村課長に事情を話すわ・・・あなたは仕事に戻って・・・」
「でも・・こんな先生を一人にしておけねぇよ・・」
「いいから行きなさい! こんな所でサボっていたら、あなたにも前兆が来たかと思われるわよ!」

そう言ってミルはハッとした。こわばった表情のリップと目が合う。二人とも同じ事を考えたらしい。

「なあ、せんせ・・」「待ってリップ・・」

二人は同時に口を開き、同時に口をつぐんだ。

「・・・何スか・・」
「・・・あなたさっき、サラとはキスもした事無いと言ったわね・・他のCBDの女には興味ないとも・・・」
「・・言ったよ・・・」
「・・・それなのに、私の腰を見て劣情を抱いた・・そんな事を言ったわね?」
「いや、あれは・・何て言うか・・」
「ちゃんと話して! 大事な事なんだから!」
「言った、言いましたよ!・・・こんな・・その・・先生みたいな人とお手合わせ願えたらなって・・・」
「ああ・・・」

ミルは溜息をつき、目を伏せた。リップも胸の辺りにジリジリと焼け付くような感覚が湧き上がってきた。

「今までこんな気持ちになった事はない・・・こんな、人間の男みたいな・・・なぁ先生、コレもそうなのか? 俺のこんな気持ちも前兆の現れなのか?」
「分からない・・・私が今まで見てきた症例にはないパターンだから・・・でも、覚悟だけはした方がいいかもね・・・」
「ああ、クソ! とうとうなっちまったのか・・・俺もああなるのか・・あんな風に・・・クソ!」

リップもしゃがみ込み、頭を掻きむしった。ミルは自分の顔に掛かった髪をかき上げながら、悲観に暮れるリップを見つめた。

「汚い言葉遣いはやめなさい。前兆があったとしても、発症するまでにはまだ間があるわ・・・それまで自分の仕事を精一杯やるのよ・・」
「よくそんな風に落ち着いていられるな先生・・あんただって知っているだろう? ウィルスが発症したらどうなるか・・俺達だってああなっちまうんだぜ!」

リップが取り乱すのも無理はなかった。人間から見ればウィルスの発症したCBDはただ発熱してうなされている様にしか見えないが、CBDにとってはそんな生やさしい光景ではなかった。
全身の記憶媒体からメモリーが消去されていく様は、人間に例えれば身体の各部が黒ずみ、腐り落ちていくのを目の当たりにしながら死んでいく様なものだった。リップは現場でその光景を何度となく見てきたのだ。

「なってしまったものはしょうがないでしょう! じたばたしても始まらないわ! とにかく持ち場に戻りなさい!」
「・・・わかったよ・・・」

リップはのろのろと立ち上がるとドアに向かったが、途中で振り返った。ミルは片手を付いてフロアに横座りしたままだった。めくれ上がっているスカートの裾を直そうともしない。
人間の言う、目の前が真っ暗になると言う感覚はこういうものかと彼女は思っていた。何もかもお終いだという思いで頭が一杯だった。
ウィルス発症の前兆。それはサイバドールの胸の内に芽生えたネガティブな感情を発露させてしまう現象だった。何故そうなるのかはまだ解明されていない。
ミルの場合はそれが元のマスターであった診療所所長への憎悪という形であらわれた。信頼し献身していたのにも関わらず、彼女と新型CBDを入れ替えた彼への憎しみと、それを思い起こさせたリップへの怒りという形で。
よりによって一番他人に知られたくない、自分の一番みっともないところを見られてしまった。それもリップの様な若い男に。
そのリップが見ているのにも気付かず、やがて彼女はキャスター椅子の背もたれに掴まって立ち上がろうとしたが、バランスを崩して椅子ごと倒れてしまった。

「先生! おい、しっかりしろよ!」

リップは慌てて駆け寄り、ミルを抱き起こした。虚ろだったその目に光が戻ってきた途端、ミルは暴れ出した。

「触らないでよ! 離してよ!! あんたも私の事、汚い女だと思っているんでしょう?!」
「先生・・・」
「どうして三途の川から引きずり戻したりしたのよ! 何もかも忘れて眠りにつきたかったのに何でこんな所に連れてきたりしたのよ!」

リップは我が目を疑った。これがあの聡明なドクター・ミルなのか?

(まるで“憑き物つき”だ・・・)

CBDにおける“憑き物つき”という言葉には二通りの意味があった。一つは文字通り、極まれではあるがこの世ならざるものがCBDに取り憑く現象を指す。人間の場合と違い、それは体重の微増と回路内の電位差異常という形ではっきりあらわれる。
もう一つは人間と共に暮らす内に、自分も人間だと思い込みだしたCBDの事を指す。もちろんそうならない様に本来はOS内の自己認識補正プログラムが働き、CBDである自覚を促すようになっているのだが、バグか何らかの異常により、それがうまく働かない場合がある。
ミルの場合もそれかも知れないとリップは思った。ウィルスの前兆だけでこうなってしまうものかどうか。
しかし真相はどうあれ、今ミルに駄目になられる訳にはいかない。彼女の役目はまだ終わってはいないのだ。

「先生・・そんな事言うもんじゃない・・なあ聞いてくれ。俺は稼働2年目だ。あんたは“いくつ”だ?」
「そんな事聞いてどうするのよ!? 私を笑いたいの!?」
「女性に歳を聞くのが失礼だって事は分かっているよ。でもそれは人間の場合だろ? なぁ、何年目だ?」
「・・9年よ・・」
「そうか・・じゃあ名実共に大人の女性だな。確かに人間と長いこと一緒にいりゃ、その間に色々あるだろうさ。ここのみんなもそんな事は分かっている」
「ほら、やっぱりみんな私の事、白い目で見ているんじゃない・・」
「そんな事はねぇよ。あんた今、何もかも忘れて眠りにつきたいって言ったよな? けど俺達の本分は何だ?」
「・・本分?」
「人間に仕え、奉仕する事だろう? あんたは課長や主任に必要とされてここへ来たはずだ。あんたの能力が役に立つと信じて・・・」
「笑わせないでよ・・私は人間相手の医師よ。コンピューター・ウィルスの解析なんて門外漢もいいところよ」
「けど、そのあんたなりの視点が役に立っているじゃねぇか。早乙女主任、言ってたぜ・・あんたのおかげでウィルスの正体を別の角度から調べてみるきっかけが出来たって・・」
「・・・・」
「俺は特定のマスターを持った事がないから、正直な所あんたの気持ちは分からない。長いこと仕えていたマスターに捨てられた口惜しさはな。だけど俺達にとって大事なことは人間に愛される事よりも、頼られ必要とされる事だろう?」
「・・そんな事ない・・一緒にいるなら愛されたいわ・・・」
「人間の女と同じ様に振る舞っちゃ駄目だ。俺達はサイバドールなんだ。それに“捨てられた”じゃなく“返品された”と認識しないと。返品ならまた人間の役に立つ時が来るじゃねぇか」
「でも・・・」
「主任も課長もあんたを頼りにしている・・いや、二人だけじゃない、堀内さんだって矢沢さんだって、コウだってヌイだって、俺だって! ここにいるみんなが先生を頼りにしているんだ!!・・・嘘だと思うなら俺の気持ちを確かめてくれ」

リップはそう言うとミルの手を取って自分の手の平と合わせた。ミルは深呼吸するとアクセスポートを開いた。
リップの心の内が見えた。ミルを心配し立ち直って欲しいという気持ちと、今彼女に潰れられるとみんなの仕事に支障を来[きた]すという気持ちが。どちらが正しいというものではなかった。そのどちらもリップの本心だった。

「・・・サラともこうして心を通わせたというの・・・」
「ああ・・・あいつもしょっちゅうヘマして、しょっちゅうヘコんでいたよ。それでもあいつは死んでしまいたいなんて一度も言わなかった・・・あいつ言っていたよ・・あたしには夢があるって」
「・・・夢?」
「ラーメンという食べ物のあるいつかの時代、どこかの世界に行って腹一杯ラーメンを食べたいって・・・レベルの低い夢かも知れないけど、俺はそんな夢がある事を嬉しそうに話すあいつが好きなんだ」
「・・・いいわね・・・私には夢なんか何もない・・・」
「そんな事ねぇだろ? 長いこと人間と一緒にいれば、感化されて夢の一つぐらい芽生えているはずだ」

リップはそう言ってくれたが、ミルには本当に夢と呼べるものが何もなかった。“あの人”と共にいたいという、もはや叶わぬ望み以外は。
いや、違う。ミルは気付いた。マスターと共にいたいというその気持ちこそが彼女の夢だった。彼に仕え、共に仕事をし、そして彼に愛されたいという気持ちが。
その夢が一方的に摘み取られた事で、彼女は自分の行き先を見失ってしまった。だが、彼女が今いる場所には彼女を必要としてくれている者達がいる。
ミルはリップの言葉を思い出す。そして自分の胸の内に銘ずる。
人間の女性の様に振る舞ってはいけない。自分はサイバドール。大切なのは愛される事よりも、頼られ必要とされる事・・・。

「有り難う・・でも夢の事は今はいいわ・・大丈夫、落ち着いてきたから・・・とにかく明日、谷村課長に事情を話して二人の身の処し方を決めてもらいましょう」
「・・・そうだな・・」
「あなたもここで少し休んでいきなさい。落ち着きを取り戻してから仕事に掛からないと、つまらないミスを犯すかも知れないわよ」
「そうさせてもらうよ・・あ、いや、そうもいかねぇか・・リーフを梱包から解いて作業台に放り出したままだ・・・」
「もう起動させたの?」
「まだだけど・・作業台の電源は入っているんだよな・・何かの拍子に起動したらまずいな・・彼女スッポンポンだし・・いや、目を覚まして勝手にどこかへ行かれたら大変だ・・」
「気になるのなら片づけてらっしゃい。当直の人か巡回の警備員が“犠牲者”になる前に。彼女、情熱的だから何するか分からないわよ」
「警備員もCBDだからその心配はないと思うけど・・でもその警備員に俺みたいな前兆が起きたらどうなるか・・やっぱりちょっと見てきます」

リップを見送った後、ミルはメモ用紙に“デフラグ中 急患が来ても起こすな!”と書いて粘着テープで胸に張り付けソファに横になった。とにかく今は眠りたかった。
眠ってデフラグを掛けて一刻も早く落ち着きを取り戻したかった。明日、谷村課長がどんな断を下すかは分からないが、発症するまでは出来る限りの事をしたい。ミルはそう思っていた。



「んー、お日様の匂いがする・・・卓也さんも嗅いでみたら?」

寝間着に着替えてきたマミは卓也の寝室に戻ってくると、自分の布団の上に倒れ込んでその匂いを胸一杯に吸い込んだ。
どうにか腰痛がおさまり先に布団に入っていた卓也は、マミに言われるままに掛け布団に鼻を押しあてた。

「ああ・・・何か干し草みたいだね。CBDもそんな風に感じられるのかい?」
「感じられるわよ、CBDだって・・・昼間みっちりお天道様にあてて干したから、しばらくはフカフカのはずよ」

そう言ってマミはうつ伏せのまま布団にもぐり込み、枕に顔を埋めた。

「当分は色々あるだろうけど・・・天気のいい日にはちゃんと干してね。人間は一晩にアバウト200ミリリットルの汗をかくんだから」
「うん・・・なぁマミさん・・この期に及んでこんな事言うのも何だけど・・・考え直す気はないかい? 和也殿の所に行くのは・・・」
「あらあら卓也さん〜、迷い箸は行儀が悪いって教わらなかった〜?」

枕から横顔を覗かせてマミはそう言った。テーブルマナーについての返事が返ってくるとは思わなかったが、マミの言わんとしている事は卓也にも分かった。卓也は寝たまま両手を頭の後ろに組んだ。

「うん・・そうだ・・そうだったね・・」
「ムンクさんと会わなきゃならないし、明日は早く出るから起こさないで行くわね」
「ああ・・・いいよ・・」
「・・ね、査問会の事だけど・・勝算はある?」
「ある訳ないよ。どうせ向こうは僕を追い込むために色々根回ししているに違いないんだ・・・そういう政治力なら向こうの方が一枚上手だよ」
「そうね・・でもそれでいいの? 一方的に小突き回されてそれで済ませるの?」
「いいとは思っていないよ・・一矢報いる為の隠し玉があれば戦局は変わるだろうけど、今の状況ではそれも期待できないな・・・」
「御免なさいね・・私が“こんな身体”だったばかりに余計な迷惑掛けて・・・」
「マミさんは悪くないよ。のみちゃんが君のプログラムに施した細工をそのままにしていた僕がいけないんだ。こんな事になるなら彼女の意地っ張りに付き合うべきじゃなかった・・」
「・・・・ねえ卓也さん、こっちに右手を出して」
「こうかい?」

身体を仰向けにしたマミは左手を伸ばし、卓也の出した右手に指を絡ませた。二人は横になったまま互いの顔を見つめ合った。
卓也の手の平が汗ばんでくるのを感じたマミは微かに微笑むと指を解いた。

「有り難う・・・これで安心して眠れるの・・卓也さんの手の感触を憶えたから・・・」

マミはそう言って枕を直し、掛け布団を掛け直した。

「・・・“その時”が来ても、この記憶だけは最後まで手放さないつもりよ・・・」

殊勝な事を言ってくれる、と卓也は思った。しかし未知のウィルス相手にそこまで抗しきれるものかどうか。

(・・・馬鹿だ、俺は・・・マミさんはそんな事を考えながら言った訳じゃないはずだ・・・)

“ここへは生きて戻れないかも知れないから・・・”

小一時間前にマミの言った言葉が脳裏に浮かび、今更のように卓也は胸が締め付けられる思いがした。それ以上の事を考えるのが恐ろしくて彼は布団を頭からかぶった。

「あらあら、まぶしいかしら? じゃあ消すわね・・・お休みなさい」

マミはそう言って天井灯に投げキッスを送った。部屋の中は街路灯の明かりがカーテン越しにわずかに差し込む青い闇に包まれた。

「お休み・・・マミさん」

痺れるような震えが声に滲[にじ]んでいなければいいのだが。卓也はそう願いながら言った。




あとがき

あ〜あ、また本筋に関係ないところで行数稼いじゃったよ(笑)。私の悪い癖です。
でも今後の展開に関わるところなので、どうかご容赦を。
終盤のマミさんと卓也さん、なにやらシリアスな雰囲気ですが、次回はちょっとアレです。(?)
正直な話、マミさんと卓也さんが普段どういうやり取りをしているかってのは私にも分からない訳ですよ。
何せ本編には二人の会話どころかツーショットさえ無いんですから。
その二人の関係に想像を逞しくさせただけでなく、希美という自前のキャラを絡ませているので、今更のようにえらい物を書いてしまっているのだなと思っている次第なのです。


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