組曲 雪の情景
「和也、いつまで寝ているの? そろそろ起きなさい」
母親の起床をうながす声を聞いて和也はのろのろと目を覚ました。天井が見えるはずなのに何故か窓際に立つ母親の姿が目に入った。
「ほら、もう朝よ」
「ああ・・おはよう母さん・・・何でここにいるさ?・・それよりその腰のポーチは何? がま口型の・・・」
「和也さん、寝ぼけてちゃいけませんよ。それより外見て下さい?」
メイの声を聞いて和也は改めて目を覚ました。今度は天井が目に入った。
「ああ・・メイ? おはよう・・・何か変な夢を見ていたみたいだ・・それより外って・・?」
「すごいですよ〜。メイこんなの見るの初めてです」
メイにそう言われて身を起こした和也はカーテンを開いた窓の外が妙に明るいのに気付いた。部屋の中には湿り気を帯びた寒い空気。そして外の静けさ。それは何か懐かしさを思い起こさせるものだった。
この感じは確か・・・。
「ほら、早く来て下さい」
メイにせかされて窓のそばへやってきた和也は思っていた通りの光景を目にした。
「雪だ・・・」
窓から見えるかすみの家の屋根も、かすみ荘の塀の内側にある敷地も白く冷たい綿帽子に覆われていた。そして顔を巡らせば周囲の家々の風景も。
それは和也に故郷、富山の冬を思い起こさせた。母親の夢を見たのもこの空気を感じ取ってのことだったのかも知れない。
「おはよう和也くん。外、すごいわね〜」
声の方に振り向くと押し入れのエレベーターからケイが降りてきた。
「おはようございます、ケイさん。見て下さいよ、こんなに積もっているのって久しぶりですよ」
「そうね。去年の12月にも雪がいくらか積もった日があったけど、それ以上ね〜」
「でも、今頃こんなに降っていいんでしょうか。もうすぐ三月になるのに・・・お花が咲くの、遅れないでしょうか・・」
メイの言葉に和也とケイは顔を見合わせた。妙なことを気にすると思ったが、確かに彼女の言うとおりだった。
「・・まあ、雪国と違って、そんなに長くは残らないと思うよ。花は大丈夫じゃないかな?」
「確かにこの時期にしては多すぎる降雪量よね。やはり異常気象のせいかしら〜?」
異常気象か、と和也は思った。身もフタもない言い方だが、確かにこの時期、この地方には似つかわしくない積もりっぷりだ。おそらく20センチはあるだろう。
「それにさっきニュースで見たけど、首都圏の交通は軒並みマヒ状態よ。平日だったら大混乱よね〜」
それもまた現実だった。雪国と違い、こちらには大雪に対する備えが甘い。わずか5センチの積雪でも鉄道、自動車はおろか歩行者まで移動がままならなくなる。12月の“大雪”でもそれは証明済みだった。
郷愁に浸っていた和也が窓の外の風景に複雑な思いを抱き始めた時、電話が鳴りだした。
「いいよメイ、僕が出るから・・・はい、早乙女です」
『和也君? おはよう、千草だけど』
「お、おはようございます・・・何か外、すごい雪ですねぇ・・」
思いがけない大家からの電話に和也はどぎまぎした。実際に顔を合わせているわけでもないのに自分のパジャマ姿を気にする。
『すごいわね・・故郷[おくに]のことを思い出したんじゃない?』
「はい・・・ところでかすみちゃんは?」
『今、うちの玄関先の雪かきをしているわ。朝御飯は食べた?』
「いえ、これからですけど・・・」
『そう・・それが済んでからでいいんだけど、ちょっと労働奉仕をお願いできるかしら』
千草のその言葉に和也は嫌な予感がした。“していいかしら?”という遠慮がちな言い方ではなく“できるかしら”と大家は言った。
「あ・・雪おろし・・ですか」
『本当は営繕屋さんにお願いしようと思っていたんだけど、この有様でしょ? どこも引く手あまたで、今日中にうちには回ってこれないみたいなのよね』
「でしょうねぇ・・」
『その代わり今月分のお家賃、半額にしてあげるわ。悪い話じゃないでしょ?』
本来なら願ったりかなったりの提案のはずだが、和也にとってはキツイ一発だった。それでなくても先月分を滞納しているのだ。この借りは大きい。
確かに雪下ろしの経験はあるが・・・。
逃げ場がないことを告げるかのように、かすみ荘の屋根からミシリときしむ音が聞こえた。
「ふう・・・やっぱりキツイなぁ・・」
何とか自宅の玄関前の雪を片づけたかすみは腰をこぶしで叩いていた。使っていたスコップは鉄製で重く、しかも土を掘り起こす為に三角形の剣先になっていたから雪かきにはあまり向いていなかった。それを使って水気を含んで重くなっている雪を運ぶのは容易ではなかった。
かいた雪は自宅の庭の方に積み上げていた。以前雪が降ったときに道路に出すのはマナー違反だと和也から聞いていたからだ。運ぶ苦労はあったものの、雪を置いておくスペースがあってよかったとかすみは思っていた。
しかし近所の家々の大半は――自宅に庭があっても――道路脇に雪を積み上げている。
(何だかなぁ・・・)
「ほらかすみ、出来たよ。見て見て?」
レナは玄関の両脇に二つの小さな雪だるまを作っていた。木の枝と小石で作った表情は何故か神社の境内の狛犬よろしく一つは穏やかな顔、もう一つは怒ったような顔をしていた。
「へえ・・かわいい・・ねぇ・・」
「こっちは『ニコだるま』、そっちのは『オコだるま』だよ」
何を思ってそんな風に作ったのか聞いてみたかったが、腰と腕が痛んでそれどころではなかった。そこへ和也とメイがやってきた。
「おはよう、かすみちゃん」
「おはようございます、かすみさん」
「ああ和也クン、おはよう・・・ってメイ、何なのその格好は!?」
「コレですか? 和也さんのを借りたんですけど?」
メイは上下のジャージを着、その上にスタジャンを羽織っていた。
「仕方ないよ、こんな日にいつもの格好で外に出すわけにはいかないから・・・それよりお疲れのところ悪いんだけど、ハシゴを貸してくれるかな?」
「ハシゴって、あそこに掛かっている渡りバシゴ?」
「うん、大家さんに頼まれてね。かすみ荘と君んちの屋根の雪下ろしに使うから・・・いいかい? 大家さんはOKくれたけど?」
「もう、お母さんたら ・・・まあ、いいけど・・場合が場合だし」
「じゃあ、ロープをかけてゆっくり降ろそう。いきなり落としたらハシゴを痛めるからね」
「ありがとう・・待ってて、物置でロープ探して来るから」
自分の大切なハシゴを気遣ってくれる和也の気持ちは嬉しかったが、その一方でかすみはメイの服装が気になっていた。
メイが和也の着ているものを身に付けている・・・。
(メイが悪い訳じゃないのは分かっているけど・・・何かムカつくなぁ・・)
所変わって南原耕太郎の屋敷。ムカついている者はここにもいた。
「・・・まったく、いったい何の嫌がらせよ、何で一晩でこんなに降ったりするのよぉ」
サラは屋敷の屋根から滑り落ちてきた雪をテラスの前からどけている真っ最中だった。南原の屋敷も敷地一面、雪に覆われていた。
南原もまた雪国出身だけあって、大雪対策に抜かりはなかった。冬の間、屋敷のガレージには南原モータースから取り寄せた小型の除雪機が1台常備されていた。
ただしこれは現在、正門から屋敷の玄関までのアプローチの除雪に使われており、屋敷周りの雪かきには使用人が駆り出されていた。サラもその手伝いをしていた。
「札幌の雪祭りが終われば春が近付くって北海道[あっち]の人も言ってるんでしょお? そんな時期に何でこっちにドカ雪が降るのよ!?」
かすみが使っていた鉄製のスコップと違い、サラが手にしているのは軽いプラスチック製の雪かき様スコップだったが、それでも湿った雪を何度もすくい上げるのが容易でないのは同じだ。
「大体ね、雪なんてクリスマス・イブの夜にほんの気持ち程度に降りゃいいんだよ。翌朝にはとけて無くなっているぐらいにさ。都会の人間はみんなそう思っているさ!」
人間に比べればサラの体力ははるかに上だが、サラ自身は持久戦にはあまり向いていなかった。雪をすくっては投げ飛ばすを繰り返す単純労働に次第に苛立ちがつのっていた。
「あーあ、あたしがこんな苦労をしている一方で、どこぞの恋人達は雪と戯れているんだろうねぇ? 二人してまっサラな雪に倒れ込んだりしてさ。そんでもって雪玉ぶつけ合ったり、雪ウサギや雪だるま作ったりしてさ」
誰に向かって悪態をついているのかサラ自身にも分からなかったが、とにかくこの理不尽な天候に対する収まりのつかない気持ちを吐き出さなければ気が済まなかった。
「・・・それで夜になって濡れた服を乾かしがてらストーブの前で2人寄り添ってさ、いや、しんしんと降る雪を窓から眺めてンのかぁ? それで男が女の肩を抱いて『寒くないかい?』とか聞いたら女が『大丈夫よ、あなたの温もりがあるから』とか言うんだろ? そんでもってそのままエッチになだれ込もうって魂胆なんだろう!? ええ? そうだろ、この野郎!!」
雪かきをしている使用人達もこの作業を黙々とこなしていたが、サラのとどまることを知らないぼやきに顔をしかめる者もいれば、いつしか忍び笑いをもらす者もいた。
「けどね、そのまま夜が明けたら外は深ーい雪に覆われているんだよ! 外出もままならないくらいにね! 街へ行くにはアンタらも雪かきしなきゃならないって事だよ! 楽しいことの後には地獄が待っているんだよ! ざまぁカンカン、ヘソの穴ってんだ!!」
「やかましいぞサラァ!! 1キロ先からも聞かれているぞ!! 健さんが口ずさむテネシー・ワルツがよく聞こえンではないかぁ!!」
テラスの窓を開け放って南原がガウン姿のまま怒鳴りつけた。しかし、それを聞いて今度はサラがブチ切れた。
あたしらが汗水垂らして働いているときに、このバカ殿はホームシアターで『鉄道員(ぽっぽや)』を見てやがる・・・。
「うるっさいわね!! 文句言うヒマがあるんだったらアンタもこっちに来て手伝いなさいよ!!」
「何だとぉう!?」
「上の者が率先して動いてこそ下の者も付いていこうって気になるってモンでしょうが!? 少しは男を上げる事やってごらんなさいよ!!」
サラの無礼な態度に怒鳴り返そうとした南原だが、使用人達がサラの“演説”に拍手を送っているのを見てバツが悪そうな顔になった。
「・・・あー、今のは聞かなかった事にしてやる。残り、ちゃんとやっておけよ」
そう言い残して南原は部屋の中に引っ込んだ。
「だーーっっ、そんなんだからいつまで経っても人望が無いッちゅうんじゃ、おどれは!!」
そう言いながらサラはラッセル車のように雪をはね飛ばし続けた。
「和也クーン、足元気を付けてよー」
「は〜い、気を付けてますって」
かすみ荘の屋根の雪下ろしをしている和也にかすみが下から声をかける。怖じ気づいた声でそれに応える和也。かすみとメイとレナが見守る中、少しずつ屋根の雪を落としていく。命綱を付けているとはいえ、気持ちのいい作業ではない。
「和也くん、だいぶ緊張しているみたいね〜」
「あ、ケイさん。そうなの、見ているこっちがハラハラして・・」
「和也く〜ん、後どれくらいかかりそう〜?」
「そ〜ですねぇ・・・こっち側の残りと反対側の屋根で・・1時間くらいですかねぇ」
「かすみ荘だけじゃないよ、うちの屋根も頼まれているんでしょ?」
「あっ、そうか・・・」
「じゃあ、まだまだみたいね〜・・私も和也くんに頼みたいんだけど・・」
「何なんですか、ケイさん? 和也さんへの頼み事って?」
「さっき駐車場へ行ってきたんだけど、私のロードスターに雪が積もってヴィッツみたいになっているのよね〜。それで和也くんに雪を下ろすの手伝ってもらおうと思ってたんだけど・・・」
無神経な女だとかすみは憤慨した。アパートと自宅の屋根の雪下ろしだけで和也はかなり消耗するはずだ。その彼にまだ仕事をさせようというのか。
車の雪下ろしぐらい自分でやれと抗議しようと思ったとき、メイが先に口を開いた。
「大変じゃないですか、車の屋根が潰れてしまいます! 和也さんの代わりにメイが手伝いますから、すぐ行きましょう!」
「え? でも私は・・」
「さあ、早く! かすみさん、和也さんのこと、よろしく頼みますっ」
「ああん、和也くぅん・・・」
メイに腕を引っ張られたケイは未練たっぷりに和也の方を見たまま連れて行かれてしまった。
(・・・ははぁ、さてはケイさん、和也クンに車の雪下ろしを手伝わせた後でどこかに連れ出すつもりだったな・・・)
その憶測が正しいかはともかく、たくらみのありそうなケイを和也から遠ざけたメイはいい仕事をしたとかすみは思った。
「和也ク〜ン、ほら、よそ見していないで。足元に気を付けてよ〜」
「もう、何回も言わないでよ・・・うわだぁっ!」
「大丈夫〜? 言ってるそばから転ばないでよ」
「卓也さん、おはようございます」
そう呼びかける声に卓也は目を覚ました。のろのろと目を開けると少女が視界に入った。だが見覚えはあるはずなのに、何故か彼女の名前が思い出せない。
「おはよう・・・ん? 君は新しいCBD[おんなのこ]か?・・・えっと、誰だっけ・・・それより君、どうしてマミさんの着物を着て・・・」
「あらあら、卓也さん寝ぼけているのかしら〜? その様子だと年増女の代わりに若い娘さんをそばに置きたくなったかしら〜?」
マミにそう言われて卓也は改めて、そして慌てて目を覚ました。マミに寝言を聞かれたようだ。
「いや、違う、違うよマミさん、そんな事ないよ・・僕はそんな事しないよ・・・」
「ふふ・・それよりこっちに来てご覧なさい。珍しいものが見えるわよ」
「何だい、珍しいものって・・・ほお、雪か・・・」
カーテンを開けた窓の外に綿毛のような雪がまばらに降るのが見えた。
「何年ぶりかしらね、雪が降るなんて・・・」
「ああ、何年ぶりだろうね・・・強い寒気が来るから降るかも知れないって、ゆうべの天気予報で言っていたけど本当に降るとはね・・・」
この時代にクリスマス・イブの夜にだけ雪が降ればいいと思う都会の人間はもう誰もいない。雪が空から舞い降りる、その中に身を置くのは今やとても貴重なひと時なのだ。
ひらひらと降り続く雪が地表に触れるそばから消えて行く。
「ケイさん、もう少しですっ。頑張りましょう」
かすみ荘の近所の月極駐車場にあるケイのオープンカーに積もった雪をメイは持ち主と共にせっせと下ろしていた。
さすがにボンネットや幌の上の雪をスコップで下ろすわけにはいかない。ケイは購入したときに付けてもらった愛車セットの洗車ブラシを使って雪をかき落としていた。
メイに至っては素手で雪を落としていた。最初は手袋をして作業していたのだが、水気がしみ込んできたので思い切ってはずしてしまったのだ。
「メイちゃん、両手、冷たくない〜?」
「冷たいけど大丈夫ですっ。それよりケイさん、そのブラシ、毛が柔らかすぎて使いづらくありませんか?」
「そうね・・雪を落とすにはちょっと硬さが足りないみたいね」
「年に数えるくらいしか使わなくてもやっぱりスノーブラシは必需品だと思いますっ。これが終わったらさっそくカー用品店かホームセンターに行って買ってきましょう! メイもおつき合いします!」
「そ、そう? ありがとう・・(ブツブツ)でも私としては和也くんと行きたいのよね・・」
「何か言いましたか?」
「ううん、何でもないわ」
終わり